がくが綴る何か

思ったことをテキトーな頻度で文にまとめ更新していこうかと思います。

シュレーディンガーの何とやら

シュレーディンガーの猫」という実験がある(らしい)。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB

 

「ある事」に思いを馳せてたらふとこの実験を思い出した。

 

よく聞く名前ではあるものの、詳しくは知らないので調べてみることにした。

 

頼れるWiki先生に書いてあることを読む。

 

…分からない。

「物理」とかいうワードが出た瞬間私文の脳みそは考えるのをやめた。

 

「分からない」で終えるのは癪なので、自分にできる範囲で理解するに留めることにした。

 

1時間後に50%の確率で猫を殺す箱に猫を入れたら1時間後に猫はどうなっているか?という実験をした、とのこと。

この実験を通じて本当に言いたいのは1時間後の猫の状態をどのように記述できるかを考えることで私文の僕には想像もつかない「量子力学的記述」というものが未完成であることを示したかったらしい。

 

まぁこんなこと理解できるわけがないので、ここでは記述「される」側、すなわち「猫」側に寄り添っていろいろ考えてみることにした。これなら理解できそうな気がしたので。

 

1時間後、箱の中の猫は、箱の中身を確認するまでは「50%の確率で生きてる」状態と「50%の確率で死んでいる」状態が重ね合わさったものである、要はざっくり言ってしまえば「生きかけ」の猫がいる、と表現できるのではないか?ということである。

 

物理うんぬんはよく分かんないので、この実験の肝って日常生活に落とし込むとしたら「猫が死ぬ確率がぴったり50%である」ことでは無いかなぁ、って思う。

少しでも死ぬ確率、もしくは生きている確率に傾いていた状態で実験したら、絶対に「体の60%は生きてるけど40%は死んでる猫」っていう思考回路にはならないはずで、「まぁ多分生きてんだろ」くらいになると思う。

生死が五分五分だからこそ「生きかけ」という状態の猫を僕たちは描くことができるんだと思う。

 

シュレディンガーの何とやらとは言わずとも、1つのできごとに相反する2つの結果が起こりうる確率が五分五分の時にそのどちらの結果の要素を含んだ結果を想像してしまうことっていうのは日常生活の中で多々あるのかもしれない。

 

ここで冒頭の「ある事」に話が戻るワケだけど、「ある事」とはとても単純。

 

「自分の成績が悪すぎる」ということである。

 

成績表が出るまで、ぼくは「どうせフル単だよ」とかテキトーなことを言って自分の気持ちを落ち着けるなどしていた。

成績表が出るまで、どの科目に対しても「単位が取れてる」という結果と「落とした」という相反する結果の2つが混ざって存在しており、これをシュレディンガーの何とやらに当てはめると、成績表を確認するまでは自分の中で成績表は「取れかけ」の状態の単位でひしめき合っていることになる。

「取れかけ」の単位はもちろん「落とした」というわけではないので、成績表を見るまでは実質フル単のようなものなのである(とぼくは思ったんですけど…)

 

まぁ実際確認してみたらかなり悪くて落ち込んだんですが笑

 

確認するまでの「取れてるかも!」っていう希望がスゴく試験終わった後も心を救っていたので、「取れてる」という可能性を奪われるのは凄く寂しかった。

 

「愛の告白」についても同じようなことが言えるのではないか、とも思った。

 

以前、人脈に恵まれていたのか出会いに恵まれていたのか、ステキな人に告白するという機会があった。

 

(以下、彼女の魅力を語るフェイズに入る。この話の本質とは1ミリも関係が無い)

 

顔がかわいい。あと意外と表情豊か。

「私はそんなにかわいくないよ」って言うたびに「そんなことないですよ」って言って「そう?」って言いながら浮かべる微かな笑顔だったり、単純にこちらからの話がおもしろくて笑ってんのかなぁ、みたいな普通の笑顔だったり、とにかく笑顔が魅力的。

あと声も好き。高めで透き通るような声。

2人で話をしたこともあるのだが、こっちが緊張して2人向かい合ったまま話し出すまでの静かな間もなぜか僕は退屈じゃなく、話し始めたら始めたで声が好きなので話を聞くのも心地いいし、結構どうしようもない話とか振ったりしても適度に相槌を打ちながら聞いてくれて、ぼくはこの人と接してる時間はとても楽しいなと思った。

あと「この人ならでは!」みたいな感じの服を着ている。まぁ当たり前のように似合ってるんだけど、上着や上下の組み合わせ1つとってもめちゃくちゃ好きで、女の子らしさが出てていいなぁって思ってた。

 

愛の告白とシュレディンガーの何とやらの話に戻ろう。これはこのブログで言いたいことではないのだ。半分くらいはちゃんとその人の前で言ったので。

 

誰かを好きになってから、告白するまでは自分とその人の関係について「恋人同士になる」という結果と「友達同士のまま」という相反する2つの結果が混ざって存在している。

告白するまでは好きな人は「恋人にもなり得るし、友達でもい続けられる」、そんな存在なのかな?って思った。

 

きっと「告白する」ということがシュレディンガーの何とやらにおける「箱を開ける」という行為にあたると思う。

 

告白することで、まぁぼくの場合は振られてしまったので、「恋人にはなり得ない」という今まで混ざって存在していた2つの結果のうちの片方が突然失われてしまったことになる。

 

案外この時の喪失感っていうのは悲しい。

 

こうやって比べてみると、「成績開示」と「愛の告白」って案外似てる。

 

そして僕の場合、あまりに悪い成績を見て余計に振られたことを重ね合わせてしまったため、悪い成績が輪をかけて心に沁みてしまった。

 

それだけの話でした。

 

文章下手でゴメンなさい。

 

来年度こそは(勉強を)頑張ります。

もうこんなくだらないことで変な記憶を呼び起こして無駄に泣きたくないので。