「名前を知らないものは認知できない」
そんな話を聞いたことがある人はいるかもしれないし、そうでなくてもほとんどの人はそういう体験をしたことがあるかもしれない。
例えば普段は見向きもしない駅構内の広告も、例えばその広告がアイドルの最新シングルの宣伝だとして、名前を知らなければ見もしないはずなのに、ある日そのアイドルを音楽番組の特集で見てからその翌日にその広告を見て初めて「あっ!いつも使ってるこの駅のここにこのアイドルの広告があったんだ!」と気づく、なんていうのは割とあるのではないかと思う。
似たようなエピソードが「ぱちん娘。」というマンガにも描かれていた。
https://p-town.dmm.com/writers/pachinko/8381
前までパチンコを打たなかった主人公がある日パチンコに手を出し、その数日後家の近くを歩いていたらパチンコ屋さんを見つけ、それに対して「こんなとこあったんだ!前からあったはずなのに全然気づかなかった!」と言うシーンがある。
自分にとって身近な場所でもこんなことが起こるのだ。
自分自身ほぼ同じ経験をしたことがある。
パチンコを初めて打った時から街を歩くと今まで目にもつかなかったのに「こんなところにもあるんだ」と気づいたことは何回もあるし、パチンコ屋さんのドアが開くと普通の人は「うるさい音がしてる」としか思わないが、パチンコについてある程度分かってくると「あ、今店から聞こえてきた音は北斗無双が当たった音だ」と気づけるようになった(それがいいことなのかどうかはさておき)
また普通の人には分からない例にはなるが、リズムゲームをしている時に、叩くところは光ってるから見えてるはずなのに「譜面を認識できない」ということは多々ある。理由はもちろんその光っている部分を「どんなリズムで」「どのような指使いで」押せば良いかが分からないからである。
でも譜面を自分なりに研究して今まで見えなかった部分が叩けるようになるというのはよくある。
「認識する」ということは「知る」ことと同義なのだ。
前に読んだ文章におもしろい例が出てきた。
「子どもの描く人の絵で頭が大きくなってしまうのは、子どもが人を認識する時に視覚的情報として入ってくるのは顔がほとんどだから」というような文があった。
よくよく思い返してみれば子どもは人と接する時、子どもどうしにしろ大人相手にしろ自分の目線にいつも相手の顔がある。だから顔より下を知り得なくてこのようなことが起こるのかなぁと思ったし、また自分が人の絵を描く時、顔と身体のバランスがある程度まともになったのも思春期を経て人の身体に興味を持ち始めた時期からなのではないかな、と思った。
知らなきゃ感じ取れないことで世の中は溢れている。
いつも流れてる駅の発車メロディーも知ってる曲なら「おっ!?」ってなるし、知らない曲なら明日には忘れてる。
外ですれ違った人も名前を知らなければその人の顔を覚えているのも長くて翌日まで、覚えているとしたらそれはよっぽど顔に特徴があって頭の中でその人に「鼻の上のホクロが大きな人」みたいに名前を付けているからだろうと思う。
正式な名前を知らなくとも、「夏になるとよく湧く小さな羽虫」みたいに適当な名前を付けていろんなものを認識しているのだと思う。
もちろん、名前を付けるのにも「言葉の精度」が高い方がいい。
道端ですれ違った人に頭の中で「外国人」と名前をつけるか、「スーツを着た外国人のイケメン」と名前をつけるかで認識の精度は大きく違う。
その「言葉の精度」は何によって差が付くかと聞かれれば、それは「学びの差」としか言いようがない。
学ぶということは世界の認識に繋がるのだ。
家庭教師ヒットマンREBORN!というマンガに「マロッキョのヘルリング」というアイテムが出てくる。
(眼球が苦手なりに頑張って調べた)
このアイテムはかつて「世界の全てを見るために瞬きをしない」と決めたある男が死ぬ寸前だか瞬きしそうになった瞬間に自分の目を抉ってリングにしたものなのだが、「世界の全てを見る」ことに「見る」ことはそんなに大切では無いのではないかと思う。
「三重苦」のヘレン・ケラーも水を「水」という名前と知ったから手に浴びる液体を「水」と認識することができたのだから、あくまで視覚は認識する上でのサポートで、何よりも「認識しようとしているものの名前を知る」ということが大事なのではないか。
学ぶことは自分の認識の幅を広げること。
学ぶことでいろんなものに気づけ、世界が彩られる。
「選挙誰に入れようかな」と普通の人は言うが、法学を学んでる人は参政権やらの知識を持ち出し1歩上の視点から選挙を見ることができる。
世の中往々にして高いところから見る景色は綺麗なものだ。
とにかく何でも学んでみる、そして色んなものに自分なりに名前をつけてみる、そうすることできっと世界をより高い視点で見られるようになって、綺麗に彩られた世界を見ることができるようになるのではないだろうか。
断じて「馬鹿と煙は高いところが好き」なんてことは無いと思う。